ぴかちゃん日記

ダメ人間によるダメ人間の為の備忘録。

朝礼かなんかで先生が「君たちの前には無数の扉がある」って言ってたよね

1.【はじめに】

私は迷った事がなかった

小学生のころだったろうか。私たちはみんな同じようになるように、平等になるようにという環境の中で育ってきた。何も決断しなくても大人たちが決めたカリキュラムをこなしていれば、それが正解だった。自分で何かを選択した記憶は、強いてあげるならクラブ活動くらいだろうか。私は走ることが好きだったのだけれど、小学校には陸上部はなく、中学校に入ったら陸上部へ入りたいなと思っていた。

しかし、中学校へ進学した私が選んだのはサッカー部だった。小学校からの友達の多くがサッカー部を選んだからだった。ほとんど迷いもなくサッカー部へ入部してなんとなく過ごした。しかし私がサッカーにやりがいを感じたり、好きだと思ったり、楽しいと思った記憶は無い。私は走るのが構内でも1、2番目に速かった。けっして過去を誇張しているのではなく事実だ。多分。走ることに専念できる陸上部こそが自分には合っていた。そもそも団体競技も好きではない。陸上部こそ私に向いていたのだと思う。

しかし私がサッカー部を辞めて陸上部へ入る事はなかった。何故なら一度自分が選択して決めた部活を辞める勇気がなかったんだ。だからダラダラとサッカーをし、3年になった時には部活へ行くのも嫌になった。エース番号である11番であったが、先輩の圧力から解放された私は幽霊部員となった。他のメンバーへの罪悪感とサボる事に対する背徳感もすぐ慣れた。そこで感じたのは部活の時間に縛られない自由な時間。放課後、今までにないくらいの解放感でとても気分が昂揚した。テンションがとても上がった。次第に学校自体も時間通りにいくことが馬鹿らしく思えてきた。休んでも暇だったのでお昼過ぎに登校をするようになったり、保健室に通ったり。そうなってくると、同じような友達とつるむようになる。ヤンキーがとても少ない年代だったので、グレたりはしなかった。それは今思えばとてもラッキーだった。

次に高校進学の選択。決断を迫られたのは中学3年の頃だから14、5歳なのかな。この年齢になってくると私は働く自分を想像するようになった。私の父親は建築士だった。とても優秀な人だと思う。祖父も建築系の仕事に就いていた。私はなんとなく自分もその道に進むものだと思い高校は工業系へ進む事にした。距離は離れていたのだが、国立の偏差値の高い学校を選んだ。そこは私の父親の母校でもある。父親は黙っていたのだが、私がそこを選んだ事をとても喜んでいたようだ。後日、母から聞いて知った。合格発表もわざわざ見にいったらしい。

、、、しかし、ろくに受験勉強もしなかった私は当然のように落ちてしまったのです。この時、父親をとても落胆させてしまった事は想像に難しくない。今でも、この時の合格者発表を見る父の姿を考えると、、、切なくて心が苦しくなる。当時、私は自分が情けなくて、この後、なんとなく父を避けるようになった。合わせる顔がなくて。

さて、次に選んだのは県立の工業高校で偏差値は大分下がる。実は私、そこそこに成績が良かったので工業高校よりも偏差値が合っている普通科の高校を進められていたのだが、担任の言うことを無視して、迷わず県立工業高校を受験し進学した。

入学当初、試験が行われた。入学してすぐだったように思う。中学校レベルの基礎問題だった。私は学年で3番目だった。あ、これは本筋には関係ない自慢でしたごめんなさい。、、、建築について実際に学び始めると、私には合わない事が自分で分かった。なんだろう、全然興味が湧いて来ないのだ。図面とか細かくて面倒くさいとしか感じなくなったのだ。再び登校する事が面倒くさくなり、サボり始めた。勉強する事を辞めたのだ。時間があまり、暇だったのでバンド活動をしたりして時間をつぶしていたのだが、意外と充実していた。

高校を卒業する時にまた、進路を選ぶ時が来た。私は建築の道に進む事は考えられずに適当に進学を選んで大学受験をしようとしたのだが、、、。

この時に初めて祖父に怒鳴られたのだ。時刻は夕飯時だったような気がする。19:00頃だろうか。外は暗かった気がする。父も母も妹も皆がその場に居たように思う。普段無口で優しい祖父が突然怒鳴ったので私はその場で硬直した。祖父になんて言われたのか一言一句までは覚えていないが、なんの目標も信念も無く、ただ適当にふらふらとしている私に苦言を呈したのだと思う。祖父以外に誰も言葉を発さなかった。

祖父の罵声が続く中、唐突に父が私を外に連れ出した。近くの居酒屋へ二人で歩いて向かった。父はとても無口な人だった。歩いている時、もしかしたら会話は無かったかもしれない。しかしこの後、お店に入ってから父は、たくさん話をしてくれた。そして、とても丁寧に私を励まして、アドバイスをくれた。父の過去の話を聞いた。こんなに長く、真面目に父と二人でお互いの事を話したのは、初めてだった。父からすれば落ちこぼれの私。父はただ、最後に、やりたいようにやれ、とだけ言っていたと思う。父が優しく笑いながら話してくれたので、私はとても安心した。

、、、その後、私は自分自身に問いかけた。自分は何がしたいのか、と。私は金持ちになり、名声が欲しかった。今思えば、とんでもない馬鹿なのだが、本気で考えた結果、そう思ったのだ。

この時、もし私の近くに石仮面が落ちていたのなら、私は迷いなく人間を辞めていたぞジョジョよ!!、、、おっと、取り乱しました。

お金と名声、それを叶える為には、普通の会社員になっても到底無理だ、そう考えて導き出した答え。それは、

音楽でヒトヤマ当てる!!

まじで出した答え。それだったのだ。18歳の時、私はギターを持って東京へと旅立った、、、。

 

 2.【人生は選択の連続だって誰かが言ってたね】

上記は前置きである。長いのかもしれないが、選択と決断をまとめると短すぎたので前置きを入れてみたのである。

私はそれぞれの選択の局面で、朝礼か何で先生が「君たちの前には無数の扉がある、君たちは何にでもなれる」って言ってたのを思い出していた。

そしてその後に「その扉は年を重ねるごとに数が減っていくんだ。だから、一生懸命生きるんだよ」みたいな言葉が続くのだが、気づくのにとても時間がかかってしまった。いい事いってたんだね。先生って。

 

3.【そんでどうなったのかっていうと】

東京へ行ってから、私はすぐに音楽で食べていくのは無理だと悟った。私は2年で地元へ戻り、働き出した。この時、世間は就職氷河期と言われていた。アルバイトから入り、とある販売職についた。勤務時間が多くて18時間、短くても12時間、なのに残業代が一切でないという過酷な環境だった。私の店舗は社員が2名で24時間営業だった。私は夜0時から出勤していた。社員2名に対してアルバイトが100名近くいるので、売上のモチベーションを共有できる相手もいなかった。給料も安く、いつも金欠だった。

でも私にはもう後がない、転職したとしてもいきなり好条件にありつける学歴もない。つべこべ考えるのは辞めた。その職務を全うするとすぐに決段できたのだ。この時の自分は、今までの人生の中で最も仕事モードがオンで血の気の多い働きマンだったと思う。この時に、私は暇な時間があっても自分はなにか崇高な目標に向かって地道に邁進できるような優秀な人間ではないと知っていたのだ。だから、目の前にあることに対して必死に向かい合う事ができた。そして、自分の利益や損得よりアルバイトの子たちや働く仲間の為に命を本気で削る覚悟がもてた。とても過酷だったのだが、仕事に本気で向き合い、本気で生きていた。辛すぎて死が頭をよぎった事もある。人生の意味も考えた。死んでるよりは自分はマシだって。働く意味はお金じゃない、今は経験に投資しているんだと自分に言い聞かせた。いつか絶対にこの地獄からのし上がってやると!!そしてエスポワールでひとやま当ててやると!!、、、でも、その話はまた後で。

 

4.【おわりに】

その後、1度転職をした。現在、私は小さい会社であるが取締役まで昇進した。関連企業も含めて最年少でここまで来た。毎日それなりに充実している。ルールの中で働くのではなく、ルールを決める事ができる。結婚して子どももいる。奥さんも美人だ。そんなに稼いでるわけでは無いのだけど、同年代と比べると年収や環境は良い方だと自分では思っている。

迷うというのは本気で考えている証拠だと思う。私は適当だから未だに迷ったり、悩む事が少ない。そして私が選択したほとんど全てが間違いだった。しかしながら、間違いを沢山選び、もがいて、苦しんで、泣きながら必死に生きる事ができたのは幸運だったと思う。

さて、これで終わりです。最後まで読んでくれた方がいるのなら、ありがとうございます。私はこれから飲みに行ってきます。今日は、どっかのお姉ちゃん指名しようかな。とても迷う。そう、人生は決断の連続なんだ。